※年齢、所属は取材当時のものです。
写真=新しいラグビー場で、インターンシップで訪れた大学生とともに「釜石シーウェイブス」の外国人選手の話を聞く子ども記者
――思い描く、街の未来図
今年もすでに、幾度も自然の力を見せつけられている。しかし、あの何もかも失い途方にくれていた東日本大震災の被災地も、7年が過ぎた今、大きく変わりつつある。スポーツや基幹産業を生かし、新しい「街づくり」の形を私たちに示してくれる。子ども記者はその現場を自分の目で確かめ、学び、「自分たちにできることは何か」を問いかけながら、3日間を駆け抜けた。
子ども記者たちが初日にまず訪問したのは、岩手県大槌(おおつち)町の「コラボ・スクール 大槌臨学舎」だ。2011年3月11日の東日本大震災の約9か月後から、東京のNPO法人「カタリバ」が運営している。
同町は震災で、当時の人口の1割近い1286人の死者・行方不明者が出る甚大な被害を受けた。臨学舎は、学校も被災し、狭い仮設住宅で十分に勉強できない子どもたちのためにスタートした。
スタッフの大串勇志さん(30)によると、その後、町が学校再建を優先的に進め、子どもたちの学びの場は戻ってきた。それに伴い、「学習機会の提供」という臨学舎の役割も変わりつつある。ここに通う高校生たちは今、「町のため、住民のために一人一人ができることに取り組もう」という「マイプロジェクト」に励んでいる。
県立大槌高校2年の佐々木加奈さん(17)は、地元の珍味「コワダ」(マンボウの腸)を使った新たな料理を地元の祭りで披露した、と報告してくれた。子ども記者の「震災前に戻れるなら何をしたかったですか」という質問に、佐々木さんは「自分の町をもっと見ておけばよかった」と、真剣なまなざしで答えた。今、ふるさとを見つめ直し、商店街を元気にしようと挑戦している。
2日目に訪問した岩手県釜石市鵜住居(うのすまい)町の旅館「宝来館」は、大槌湾に臨む浜に立つ。7年前、津波で深刻な被害を受けた。
当時、宝来館で勤めていた伊藤聡さん(38)は地震直後、海の潮が猛烈に引いていく様子に気づいたという。普段は見えない海底の岩が現れ、「本当に危ないと思い、周りの人たちに『逃げよう』と声をかけた」と振り返った。
旅館の裏山の斜面には津波避難路が整備されていて、高齢の住民や宿泊客のために手すりもある。子ども記者たちはあの日の津波を想像しながら、避難路をたどった。2階の高さまで上った伊藤さんから「ここまで津波が来ていたんだよ」と説明され、記者たちは「こんな高さまで」と驚きの声を上げた。
津波にのまれながらも助かった人にも会った。女将(おかみ)の岩崎昭子さん(62)だ。走って避難する途中、背後から津波にさらわれた。20メートルほど流されたが、「生きたい」と山の斜面にしがみつき、駆け上がったという。
宝来館の建物は土砂に覆われたが、約10か月後に営業を再開した。子ども記者の「なぜ仕事を再開したんですか」という問いに、岩崎さんは、ラグビーに励む東京の中学生たちが「釜石で勉強したい」と申し出てくれたことがきっかけだった、と明らかにした。
ラグビーの日本選手権7連覇を達成した新日鉄釜石の本拠地だった釜石。人々は来年のラグビーワールドカップで、世界中から訪れた選手やファンに、復興を成し遂げた釜石を見せたいと願っている。
――復興つなぐスクラム
1年後の9月20日、4年に1度の祭典・ラグビーワールドカップ(W杯)が日本で開幕する。会場の地の一つに選ばれたのが、東日本大震災の被災地・岩手県釜石市だ。
7月末に完成した会場の「釜石鵜住居(うのすまい)復興スタジアム」は、リアス式海岸の大槌(おおつち)湾に面した地区にある。2011年3月11日まで、ここには小学校と中学校の校舎が立っていた。
大津波に襲われ、子どもたちは高台に逃げて全員が助かったが、二つの校舎は全壊した。その跡地をかさ上げして建設されたスタジアムは、釜石の新たな象徴になりつつある。
完成したばかりの復興スタジアムを訪問すると、地元の「釜石シーウェイブス」に所属する身長2メートル近い外国人選手2人が出迎えた。鮮やかな緑の芝の上でパスやキックをして、楕円(だえん)形のボールを追い掛けた。
ラグビーを愛し、ともに歩んできた街の熱気は、来年のW杯に向けて高まっている。子ども記者の一人は「壊れたものを直すだけじゃなくて、新しいものを作ることも、復興って言うんだ」と気づいたという。
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