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  • 未来へ紡ぐリレープロジェクト 畠山健介×熊谷育美「思いのカタチ」

 昨年夏、関西に住む小学生が「未来へ紡ぐリレープロジェクト」で訪問した「釜石鵜住居(うのすまい)復興スタジアム」(岩手県釜石市)。いよいよ半年後には、アジア初の「ラグビーワールドカップ2019 TM 日本大会」が開催されます。2011年と15年の2大会に出場経験のある宮城県気仙沼市出身の畠山健介選手と、同級生でシンガー・ソングライターの熊谷育美さんが、震災時の思いや、伝えることの大切さについて語り合いました。

故郷・気仙沼

  • 畠山健介 熊谷育美 写真

育美 サントリーサンゴリアスでの11年間、お疲れさまでした(2月22日にサントリー退団を発表)。

健介 現役をやめるつもりはないんだけどね。ラグビーがライフワークみたいになってるから、シーズンが終わってラグビーから離れると、体調崩しちゃう。

育美 私はいちファンでもあるわけですよ。私は健介と隣の校区の中学校だったけど、二人ともバスケットボール部で、健介のことは知ってました。

健介 学校にラグビー部がなかったから、学校ではバスケ部で、街に一つだけあったクラブチームでラグビーをやっていました。

育美 原点は気仙沼なんだね。

健介 そう。親以外の大人にほめられて、ラグビーが楽しいと思えたのは気仙沼からだからね。

  • 畠山健介

育美 気仙沼って不思議な街で、映画館も遊園地もなく娯楽がないところだけど、だからこそ、集中できるのかなと、この歳になって思います。いろんなジャンルで活躍している人がいますね。

健介 俺らの同級生でチダケン(千田健太:ロンドンオリンピック フェンシング銀メダリスト)もいて、たまたまでしょうけど。育美はなんで歌だったの?

育美 学校は楽しかったんだけど、中学時代にはなかなか人に言えない悩みや満たされない気持ちもあって、唯一ピアノが弾けたので曲を書いて、高校生の時にオーディションを受けたら最後まで残り、自分も認めてもらえたって救われた気持ちになりました。

健介 子どもは失敗し続けると「どうせ俺なんて」って、卑下しちゃう。まずは親や大人が、飛び越えられるかもしれないっていうハードルを用意してあげて、それを飛び越えられたら、徐々にハードルをあげて成功体験ができるようにしてあげる。できない、悔しい、でも頑張ったら手が届きそうっていう絶妙なハードルが重要。そこで悩んだ時にサポートするのが親の役目だと思うんですよ。

育美 こういう話を聞いてると、健介もいろいろ挫折してたんだ。

健介 挫折はしてないけど、コンプレックスのかたまりだから。やったことないラグビーで大人におだてられ、満たされたというか。

育美 ここまで健介と深い話をすることがなかった。

健介 いつも俺、おちゃらけてるからね。

育美 そう(笑)。他校の子も知ってたぐらい、お笑い系のキャラだったからポジティブにしか見えなかった。で、お正月になれば気仙沼の自宅で、花園に出ている健介をテレビで見ていました。

健介 俺らが高校生の時にも大きな地震があったでしょ?俺その時海外遠征でいなかった(2003年宮城県気仙沼沖を震源とするM7.1の地震)。今思えばあれも、東日本大震災と繋がってるような気がする。

正解がないからこそ、教訓を生かす

  • 熊谷育美

育美 東日本大震災の時に私は、気仙沼でロケ終了後に震災にあったんだけど、健介は東京にいた?

健介 川崎市の自宅にいたけど、でかい揺れは感じた。テレビをつけると、震源地は地元じゃんって。父親からの「津波で家がやられた」って、電話越しの振り絞るような震える声は今でも覚えてる。

育美 私たちが育った気仙沼って、昔から無意識に高台に逃げることが身についていたし、結構、津波注意報は出てたよね?

健介 そうだね。昔の人って理にかなっていて、実際に高いところにある八幡様のところまでは津波は来なかった。同じことを繰り返さないためにも、昔の人の話を繋(つな)いでいく必要があるんだなって思うね。

育美 私たちも知らず知らずのうちに地元の先輩たちから聞いていて、結局津波は、高いところに逃げるしかないんだよね。

健介 その時の判断と、どれだけみんなと連携が取れるかが大事。でも正解がないから、難しい。釜石では、津波がきたら絶対後ろを振り向くなという教訓があって、それが語り継がれていた。

育美 やっぱり現地を見て、百聞は一見にしかずっていうこともある。

健介 それは間違いない。この国はこれからも自然災害に悩まされ、そのたびに悲しむこともあるだろうけど、教訓が生きると思う。これからも起きる災害に対して、被害を最小限に、被害が起こった後の生活を最低限保てるようなものを語り継いでいきたい。

育美 もしもライフラインが止まってしまった時の、生きていくための対策も必要だよね。

健介 日本だけじゃなく、海外から支援してくれる人もいるから、逆に海外の人たちが困っている時には、助けてあげるという気持ちを子どもの時から持っておくといい。困っている人を助けないと、自分が困っている時に助けてもらえない。

思いを託す、パスを繋ぐ

育美 震災から8年、その中で健介がラグビーワールドカップ日本代表で出た15年の南アフリカとの歴史的な試合は、気仙沼のみんなも食い入るようにテレビを見ていました。健介も口には出さないけれど、いろいろな思いを背負っていたんじゃないかな?

健介 震災の年の11年のワールドカップの方が、気持ちは強かったね。でもあの時は、自分も、チームも何もできなくて。15年の大会までは気仙沼や震災のことを思い出さないくらい練習もしたし、厳しかった。まずは自分を極限まで高めて、ようやくスポットライトが当たった時に言葉にできるように、思い続けることは大事だし、必要だなって思う。

  • 畠山健介 熊谷育美 写真

育美 それを、身をもって体験したんだよね。

健介 同級生とか日本の国旗にメッセージを書いて送ってくれて、それを俺が広げたところがメディアにも出て。

育美 そう、私も書いたメッセージ入りの国旗、広げてくれたよね!

健介 後半戦ベンチに引っ込んだ時には、試合中だから国旗は手元になくて。でも、もしかしたら……があるから、スタッフに控え室に入ってもってきてって。

育美 そうだったんだ!

健介 後半戦はずっとベンチで国旗を手に握って、勝った瞬間に「オッシャーッ!」って。誰も持ってなくて俺だけだったから、海外のメディアでも一面に取り上げられて。

育美 機転が効くよね(笑)。

健介 大事なんだよ、そういうことは逃さない。よく見たら上下逆だけど(笑)。地元に残って歌を歌うのも大事だし、地元を離れて外で発言したり、行動したりすることも地元への還元になる。いろんなやり方があるので、自分の好きなことに救われるような成功体験があるといいなと思う。

育美 いよいよ9月にワールドカップが始まりますね。

健介 東北で唯一開催される、釜石の鵜住居にできたスタジアムは小規模だからこその工夫もできるだろうし、自由度も高くて可能性は大きい。ワールドカップが19年以降の東北復興のきっかけになればと思います。そして、幼い時からラグビーを知っている人をもっと増やしていきたいですね。

  • らくがきボール

育美 そのきっかけが健介も関わった絵本の「らくがきボール」なんだね。

健介 絵本とラグビーボールは異なるものだけど、どちらも思いを伝えていくもので、託すというメッセージもあるし、託された方は大事にしなきゃいけないって思います。若い人たちには、大人の言うことを気にせず、率先して行動し、間違ったら謝ってやり直して、それができるのも若い時期。いいものにして、次の世代に引き継いでほしいですね。

育美 次の目標は?

健介 僕自身、大好きなチームでプレーでき、エンジョイできたので、次はエンジョイからチャレンジの年にしたいですね。ぐっと歯を食いしばらないといけないこともあるだろうけど、それが後々の僕の人生、日本ラグビーにとって必要になると信じています。

育美 友人でありながら健介の活躍は、震災後は特に、喪失感の中の光だったので、今後どうなっていくのか、すごく楽しみにしています。

畠山健介 熊谷育美 写真

  • 畠山健介

畠山健介(はたけやま・けんすけ)
1985年宮城県気仙沼市出身。仙台育英高時代は3年連続で花園に出場、早稲田大学ラグビー部で活躍後、サントリーサンゴリアスに加入。2011年、15年のラグビーワールドカップに出場。15年大会では史上初の3勝に貢献。

  • 熊谷育美

熊谷育美(くまがい・いくみ)
1985年宮城県気仙沼市出身、在住のシンガー・ソングライター。2011年、気仙沼で震災と津波に遭遇。現在は地元・気仙沼で創作活動を行い、ライブや番組を通じて精力的に全国へ発信している。3月6日に、デビュー10周年記念アルバム『遥かな青』を発表。

阪神・淡路大震災から20年を機にはじまった「未来へ紡ぐリレープロジェクト」は、子どもたちが自分で見聞きした震災の教訓を、自分の言葉で伝えていくプロジェクトです。これまで、宮城、岩手、福島、熊本を訪問しました。