法隆寺フォーラム2019
-聖徳太子信仰の美術-
【主催】法隆寺、読売新聞社、NHK大阪放送局
【協賛】岩谷産業、ビーバンジョア
(2019年12月1日:読売新聞大阪本社版朝刊記事を基に作成)
法隆寺の仏教美術から聖徳太子信仰を考える「法隆寺フォーラム2019」(法隆寺、読売新聞社など主催)が11月2日、大阪市天王寺区の大阪国際交流センターで開かれた。太子の1400年御遠忌(ごおんき)(2021年)に向け、法隆寺〈奈良県斑鳩町(いかるがちょう)〉と読売新聞社が取り組む「聖徳太子1400年の祈り」キャンペーンの一環。古谷正覚(しょうかく)執事長の基調講演と、作家の澤田瞳子さん、大阪大の藤岡穣教授、奈良国立博物館の松本伸之館長による鼎談(ていだん)「聖徳太子信仰の美術」に、約600人が耳を傾けた。(司会は関口和哉・読売新聞大阪本社編集委員)
調和の心が平和呼ぶ
古谷正覚執事長
法隆寺は607年、聖徳太子と推古天皇によって建立されました。太子の父の用明天皇の病気平癒を祈るものでしたが、完成は没後です。現在は聖徳太子と等身とされる釈迦三尊像が金堂に置かれるなど、太子をおまつりし、その精神を伝える寺となっています。
太子が過ごした時代は非常に政情が不安定でした。朝鮮半島では百済、新羅、高句麗という三つの国が対立していたこともあって外交方針が定まらず、皇位の継承などを巡る争いも絶えませんでした。平和な世の中を実現するために太子は仏教を広めたのです。
推古天皇の摂政を務めていた604年、太子は十七条憲法を制定しました。皆が仲良く暮らすために役人の心構えを示したのです。第一条には「和を以(もっ)て貴しと為(な)す」とあります。「和」というのは色々な解釈ができますが、ほどよい調和、穏やかである温和、仲良くする和睦といった意味での「和」が大事だと示したのでしょう。互いの心が和らぎ、調和すべきだということです。
聖徳太子の御遠忌1400年という節目を前に、その心を皆さんに知っていただきたいと思います。
藤岡 法隆寺金堂の本尊、釈迦三尊像(しゃかさんぞんぞう)(国宝)は、まぎれもなく聖徳太子の美術を代表する像です。光背裏面の銘文に「聖徳太子の病気平癒を王后王子らが願い、しかしお亡くなりになったので、太子の往生を願い造った。623年に完成し、造ったのは鞍(くら)作鳥(つくりのとり)〈止利(とり)仏師〉だ」とあります。
夢殿の本尊、救世観音菩薩立像(くせかんのんぼさつりゅうぞう)(国宝、高さ180センチ)は、「東院資財帳」に「聖徳太子の等身の像」と記されている。霊廟(れいびょう)の性格をもつ八角円堂の夢殿に太子そのものとしてまつられ、太子を観音の化身とみる信仰へとつながっていったのでしょう。
澤田 金堂釈迦三尊像の中尊、釈迦如来座像(高さ87センチ)もまた、銘文に「太子の等身」とあります。おそらく鞍作鳥は太子を見知った上で、この像を手がけている。鳥その人に関する史料は少ないが、日本書紀によると605年に「推古天皇が丈六仏像の造立を誓願し、鞍作鳥に命じ造らせた」とあります。法興寺(現在の飛鳥寺)の釈迦如来(飛鳥大仏、重要文化財)のことです。金堂に入れようとしたが入らず、戸を壊す相談をしていたところ、鳥が「不思議な技をもって入れた」とか。技術全般にマルチな才能を発揮した人だったのでしょう。
鳥の祖父・司馬達等(たつと)は渡来人で、平安末の史書「扶桑略記」によると522年に来日。その娘・嶋(善信尼)は11歳で出家していて、日本最初の出家者と言われています。仏教との関わりが深い一族の中で、鳥は仏師を志したというより、自然に仏像を手がけるようになった気がします。
松本 日本を仏教国家に導いた聖徳太子の偉大な業績が、法隆寺の美術や文化財に集約されています。その成り立ちを振り返っておきましょう。太子の没後、山背大兄王が継いだ上宮王家は蘇我氏に滅ぼされ、住まいである斑鳩宮も焼かれてしまう。太子が建立した当初の法隆寺(斑鳩寺)も、670年に焼失したと日本書紀にある。
逆に言うと、ここから聖徳太子信仰が始まった。現在の法隆寺金堂、五重塔などからなる西院伽藍(さいいんがらん)は、7世紀後半から8世紀にかけての再建で、朝廷が何らかの形で関わったとみられます。有名な金堂内壁の壁画(1949年に焼損)は、遣唐使などがもたらした最先端の唐の図様を下敷きに、画工(絵師)が渾身(こんしん)の力で制作したものでしょう。
東院伽藍は、縁起によると行信僧都が739年に斑鳩宮の跡に建立し、太子が著したお経の注釈「三経義疏(さんきょうぎしょ)」を納めたと伝えています。こうして8世紀にかけて法隆寺の伽藍が一層充実し、太子信仰が盛んになっていく。日本書紀(720年成立)の太子についての記述は手厚く、聖武天皇の遺愛品も法隆寺に献納されました。
藤岡 金堂釈迦三尊像の向かって右に、薬師如来像(国宝)が安置されている。その光背裏に、607年に推古天皇と聖徳太子が、太子の父・用明天皇の遺志を継いで造ったとあります。ただ技法などから、623年銘の釈迦三尊像を手本に後に造られたと考えられています。でもひょっとすると、釈迦三尊像からさほど時を隔てず造られた太子ゆかりの像かもしれない。詳細に見ると共通点が実に多い。
澤田 聖徳太子の生涯は50年に満たないけれど、日本に仏教を根付かせ、十七条憲法を制定し、日本文化の原型がぎゅっと収まった玉手箱のよう。太子や鞍作鳥が生きた時代を、いつか歴史小説に書きたい。後世の人々の思いも含め、日本の全ての源流に迫りたい。
松本 日本の黎明(れいめい)期、飛鳥時代を考える上で、法隆寺でなければわからないことは多い。また、再建法隆寺の姿は太子信仰の隆盛を暗示しています。法隆寺と聖徳太子の価値を、多角的に見つめ直す時期に来ていると思います。